コラム

管理者プロフィール

こんにちは!HARUです!

本日はWEBサイトにお越しいただき、ありがとうございます。

私は、WEBマーケティングのスキルも経験もゼロの会社員です。

職場は小さい会社のため、総務・経理・営業全般。国内外の出張もあります。
1つの業種分野だけでは何かあったときに不安なので、本業に差し支えない程度に、ご縁をいただいた副業をスクール開始初期まで続けていました。

家では、子育てや家事は年中無休です。
大きくなってきた子どもたちですが、だからこそ、なるべく残り少ない家族の時間も大切にを過ごしたいと思っています。

スクール生HARU
スクール生HARU
毎日時間に追われながらも、なぜ今、WEBマーケティングを本気で学ぼうと思ったのか?

自己紹介とともにその経緯をお話していきたいと思います。

基本情報

名前   : HARU(ニックネーム)
年齢  :  1982年生まれ
居住所 :  都内
家族   : 夫、子どもたち、犬、ふくろモモンガ、鳥
趣味   :  読書

幼少時代 ~はずかしがりやの泣き虫時代~

私は、公務員家庭に生まれました。
父は躾に厳しい警察官、母は優しい専業主婦。
2歳の時に弟が生まれて、とても可愛くて嬉しかったことを覚えています。

父は高卒で就職し、仕事で休みが取れない中でも、時間があればプールやドライブに連れて行ってくれるなど、一生懸命家族に関わってくれました。
それと同時に、大変厳しく、笑っていたかと思うと大声で怒鳴り、物を投げたりするので、とても怖い存在でもありました。

 

私は、今とあまり変わらず、子ども時代からマイペース。
本や図鑑が好きなインドア派。
目立つことは苦手で、父に怒られたり転んだりしたときは勿論、家族が怪我をしたらどうしようと想像したり、虫が飛んできただけでも泣いている子でした(笑)

誰とでも仲良くなれる弟と違い、極度のはずかしがりやで、親戚の集まりがあるとご挨拶練習タイムを何度も設けられてしまい、大好きで大らかな祖母から離れない子どもでした。
失敗することにもとても怖がりで、ピアノの発表会でもお腹がいたくなりトイレからでられないので毎年順番が後にずれて迷惑をかけるほど…
今も仕事で初めてお会いする場面の前には、トイレの場所確認は必須です!

 

金銭的なところで言うと、公務員家庭のため中流家庭といわれるところだと思うのですが
父は自分が無駄だと判定したものには1円もお金を使わない人でした。
父の価値観が絶対なので、家全体が気持ち的にも金銭的にも余裕をもつことはありません。

誕生日やクリスマスにも、欲しいものを言えるような雰囲気ではなく
外出先で喉が渇いたときには、トイレの手洗い水を飲んで来いと言われ
手ですくって飲んでいたところを、知らないご婦人に「かわいそうに」と言われ
「みんなのために働く仕事をしているお父さんがいても、うちはかわいそうな家なんだ」と感じたことを覚えています。

小学生から高校生時代 ~転校して経験したいじめと弟との別れ~

私が小学3年生、弟が小学校に入学するとき、官舎のアパート住まいから新興住宅地に建売のマイホームを購入し引っ越しをしました。
昭和から平成に移り変わる時代、公務員家庭も少し無理をしてマイホームを持つことは父親世代の理想の暮らしで、お金の節約はそのためだったのかもしれません。

限られた収入の中、引っ越し先の生活では、ローン返済や、私と弟のピアノ、習字、水泳などの習い事代も重なり、更に節約志向に傾きました。

新興住宅地では、企業勤めや自営業の家庭が多く
3年生で新入りとなった私は、私服を馬鹿にされることになります。
“下着以外の洗濯は2日か3日に1回で良い”という家ルールのため、連日同じ服だと気づいた子から陰口がはじまり、給食にゴミ、髪の毛を後ろの席の子に切られる、ものを隠される、トイレ覗きなど、クラスメイトにとっては楽しい悪戯がはじまりました。

親がせっかく節約して楽しみに購入した家に引っ越したのに、自分の困りごとで悲しい気持ちにさせたくない。
転校生はからかわれる役目になるものだ。
落ち着くまで我慢しよう。
この頃から、家でも泣くことはなくなり、平気ぶることを覚えました。

中高生時代には、父の厳しさは一層増しました。
特に、大きな期待をしているにもかかわらず自分の思い通りにならない弟への当たりが非常に強くなっていき父が帰宅すると、私と弟はさっと部屋に入る毎日でした。

弟は高校生になり、親に内緒でアルバイトをはじめました。
毎日帰りが遅かった父ですが、たまたま早く帰宅した冬のある日、弟のアルバイトが分かってしまい、激怒した父は「もう家には帰ってくるな、勘当だ」と言いその場からいなくなりました。

弟はそのまま家を出ました。
そこから今まで一度も実家に帰ってきたことはありません。

その時私は高3の冬。
東京の大学に推薦が決まっていたところを、父親に家から出さないと言われ、学校に謝り倒して辞退することになりました。

母を思うとこれ以上父の怒りに火をそそいではいけないと思いながら
厳しい家のしがらみが嫌で、早く、自分の人生を生きたいと考えるようになりました。

 

大学生から社会人 すぐに母になる ~実家からの卒業~

センター試験には間に合い、当初の希望とは違い地元の大学に入学することになりましたが、大学での勉強は意外にもとても楽しいものでした。
父も思うところがあったのか、息子が離れてしまい気落ちしたのか、干渉は大分なくなり、大学3年生までは縁があってミュージカル団の舞台装置を作ったり、舞台を作るのに便利という理由でホームセンターの木材部門でアルバイトをして楽しく過ごしました。

この頃、キャストが足りないということで極度の恥ずかしがりやの裏方の私も駆り出され、舞台に立ったことがあります。
両親は舞台当日まで信じられずにいたようです。
親戚や友人も沢山観にきてくれましたが、緊張で舞台中の記憶はありません(笑)

4年生になった時、気楽に大学生活を楽しんでいた自分は、自分たちの世代が就職氷河期と言われる年代だということを知り焦りました。
理系出身ではありましたが、福祉分野にも興味があり、4年生も終わりになって医療機器メーカーを調べはじめました。
それと同時に、最大の希望である家を出て一人暮らしのために、まずはどこでも良いから内定をもらわなければと、企業リストの上から何社か面接をし両親に内定の報告をしました。
その時、あまり口を出さなくなっていた父から「女だから上場企業の事務員か教員以外はだめ、3年は働け」と規制を受けてしまいました。

話しても解ってもらえないだろう悲しみと残念な気持ち、怒りもありましたが、高校1年から家を出た弟とは違い、自分は大学時代は家賃もかからず、親から学費を出してもらっているという気持ちから
「3年間は親の意に沿うようにしよう。」と受け入れました。

ただ、自分のやりたいことも諦めたくない。
3年後私は自由になる!と決め、当時声掛けをしていただいた大学ゼミ室でのお手伝いを続けながら、ハウスメーカーの事務職員として就職することになります。

配属されたのは業務管理部という名のクレーム担当部署。
当番で受付にも回るため、OLらしい制服に着替えるのですが、元々服装に気を使って来ず、ホンジャマカの石ちゃんのようなつなぎ服を便利良いと愛用していたので
“出勤服はキレイ目でなければいけないが、先輩より目立たないようにお伺いを立てる”
お茶くみや勤務姿勢、持ち物をはじめ“女子社員はこうあるべきという文化”
どれも窮屈で「早く3年過ぎないかなぁ」と会社で過ごし
ストレス発散に、退勤後時々近くの居酒屋で飲むのが楽しみでした。

居酒屋では男女問わず近くのオフィスビルの人たちと知り合い、入社1年経った頃に、今の夫ともそこで出会いました。
当時好きな人がいたものの、その人には恋人がいるようで、夫からのアプローチを受けお付き合いしていたのですが、自分の性の認識が足らず妊娠

父親の怒りの顔が浮かぶとともに
あれ…これから私の人生を生きようと思っていたのに…
その時の私は、先が真っ暗になりました。

夫は大変喜んでいて、その姿は救いでした。

そして、数日後、私にも“命があるならば守らなければ”という覚悟ができるとともに
新たな束縛は生まれますが、実家から出られることに希望を感じはじめていました。

 

子育て時代 ~価値観が大きく変わったとき~

覚悟ができたといえ、仕事も大学のお手伝いも一旦辞め、自分の人生に未練を残したまま、子どもへの責任を感じながらの育児は思ったよりも大変でした。
実家にもあまり頼りたくなく、友人も先輩も、まだ結婚出産をした人は周りにおらず、散歩以外に外に出ることがなかったので、社会から断絶されたような感覚で生活がはじまりました。自分がこの子を何とかして育てるんだという気持ちだけが強かったように思います。

ベビーが泣いていれば、なぜ泣くのかと焦り、寝ていれば生きているか何度も確認して
生まれたばかりの子に、これから納得のいく人生が送れるのかと心配ばかりしていました。

夫は仕事で遅いため、家にずっといるとおかしくなりそうで、親族の保育園併設病院で働き出しました。
育児は大変でしたが、弟が家を出てしまい1人になった自分の境遇から、兄弟のいる心強さがあればと思い次男を授かり出産。
“3人育てて母”という(謎の)言葉を聞き、数年前に3人目となる末っ子を出産しました。

この次男が、弟そっくりな性質で、ポジティブ全開でヤンチャな子です。
良く言えば、私には想像も付かないようなことを次々とやってくれる刺激的な子でもあります。
優しく明るい性格でもありますが、実際、思ったことを口に出す、整理整頓が出来ない、忘れ物が多い、テストの回答がふざけている。という小学校からの指摘から、発達障害の検査を受けました。
子どものクリニックから“本人が生活で困らなけれな服薬なしでいいけど、どうしますか?”と聞かれ、そのまま今日まで来ています。

父親と同じような子育てはしたくないと思いながら
人に迷惑をかけそうな場面があるときは勿論、周囲の目や父から言われていた躾や言葉が気にかかり、あれはダメこれはダメ、何でわからないの!早く食べて!早く寝る!と、軍隊のような生活を強いていた時期があります。

そんなことをしても一向に行動が落ち着く様子はなく、あの手この手で叱っては疲れ、深夜ベランダに出てぼーっと悩んでいるうちに朝になる数年間を過ごしました。

実家と同じ、笑顔がない家でした。

他の家の親子のほほえみ合う姿が眩しくて
やぶれかぶれで子どもたちをくすぐりまくった時、笑い転げる次男の姿をみて、長男が泣いて笑っている姿にハッとしました。

その時、私は長男と自分を重ねたのかもしれません。
価値観が変わったという確かな感覚がありました。

みんなが笑い合えることが尊い。

 

そして、その数日後、ずっと番号を変えていなかった携帯電話に着信がありました。
東京の大学に行くために買った携帯電話に、弟からの連絡でした。

「福岡で家族が出来て、ちゃんとやってるよ」
というそっけないものでしたが

立て続けに起きた出来事から
「うまくいかない時でも、固定された価値観に囚われない環境とサポートがあれば
人は機が来た時に大きく成長することができる」と、私は心から信じるようになりました。

 

この頃から、自分の中に軸ができ、親としての責任と自分の人生を考え直すことになります。

これまでは自由になりたいと思いながらも
自分がどうしたいかより
人や周囲が望むところに自分が合わせて生きる人生でした。

同じ“人のため”でも
主体的に人の役に立つことを考え、喜んでもらいたい。
子どもをいきいきとした生活の中で育てたい。


過去を踏襲せず、自分の軸を信じて子どもや人と向き合おう。

人の成長を信じ、大切な誰かにやりたいことができた時、人生のチャンスがあった時には最大限のサポートをしたい。

そう思うようになりました。

夫の転勤で、地元から東京に出てきてからは自宅で塾の添削や家庭教師をしていましたが
今の自分の目で世の中を見たいと思い、子どもたちも成長してきたタイミングもあって、少しずつ外に仕事にも出るようになります。
子どもにかかる学費を考え、家族のやりたいことを応援するには収入に安心感がなく
自分も社会に出ることで、広い視野で子どもたちに接したいという気持ちもありました。

仕事をしていく中で、本当に良い出会いを沢山いただき
20代から80代まで、パワフルに活躍する方々と出会うことが多くあります。
活躍している方たちから、学ぶことばかりで、“自分にしかできないこと” “面白いと感じること”に情熱をかけている姿を見せていただいています。

時間を切り売りして我慢した分に対していただくお金だけが収入ではないことも知りました。

 

幼少期からの節約生活も、やりたいことのためなら大事なことで
良い経験をしたと感じています。

しかし、必要なのは、慢性的な我慢や節約ではなく、人生を豊かにする夢のための努力と節制だと思うようになりました。

分かっている人からすれば当たり前のことですが、初めて気付き理解をしました。

日々パワー全開で奮闘し活躍する方たちと出会い、サポートしていく中で
「約10年の社会的ブランクがある私に何ができるだろうか。
確実に人の役に立つスキルを身に付けて社会に貢献したい」
と数年間考えるようになります。

活躍している方々も、世の中を活気づける面白いことを提供するには“人”の力が必要で
軌道にのるまでの周知や集客方法には苦労しています。

また、仕事で広告運用を依頼する会社を選ぶ中で
本当に喜んでもらいたいという想いのあるサービスは貴重な存在だということにも気付きました。

視野が広がってきた頃、これから国や制度に頼ってばかりいられない時代に

  • 子どもが自分でやりたいことを発信したいと思ったとき
  • マイペースな夫が起業したいと言ったとき

不透明な会社に依頼しなければならない状況ではなく、身近な人や大切な人に正しい知識とスキルでサポートをするためにはどうしたら良いのだろうという疑問を持ち、苦手なSNSを覗いて勉強をしてみたりもしました。

インターネット全盛期、WEBスキルが発信に必須で可能性が無限大だと感じ、本を読んだり動画をみたりしながらも
何か始めるにも失敗するのは怖いという気持ちもあり、どうすればいいか分からない状態が続きました。

そして、2023年、日本一実績のあるマーケティングのプロでありながら誠実な想いのある代表講師の青木創士さんのWEBマーケティングスクールを知りました。

「1年間、本気でやりたい人だけ入ってください」というアナウンスがあり
やりきれなかったらどうしよう、期待と違うかも・挫折するかもしれないと悩みましたが
失敗する怖さと心配よりも、今、ここで学んで不安と心配が続く未来を変えよう!
40代を過ぎたという年齢の不安を突破して
新たな世界、WEBマーケティングを本気で学ぶことを決めたのです。

 

最後に

スキルを身に付けて、将来の不安を解消できる収入を得たい。
人の役に立ち、喜んでもらえる仕事をしたい。

そう思っている方は多くいると思います。
しかし、気持ちがあっても何を選んだらよいのか、どうしたら良いか分からないまま時が過ぎてしまいます。私も同じような時期が数年続きました。

私はWEBマーケティングに興味を持ち、魅力を感じて
今、ここだと思える場所でWEBマーケティングを学べる機会に感謝をしながら

私と同じ不安や心配を抱える方には、少しでもはやく不安を解消できる方法を知ってほしい
そんな想いがあって、これから1年間、本気でWEBマーケティング学び、発信していきます。

私がWEBマーケティングを学び、有益だと思った内容は全てブログに発信していきます。
同じような悩みや想いから
WEBマーケティングが必要だ!
WEBマーケティングに興味がある!
と思っている方の参考になり、一緒に学びへ踏み出すきっかけとなると嬉しいです!

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。